無冠文庫

古今東西傑作小説集

掌編味覚『解剖学的嗅ぎ煙草入れ』

煙草と聞いて制服姿の彼女を思い出すのは、余りにエモーショナルな言い分を聞いた覚えがあるからに違いない。

ある帰り時、目の前に好きな子が歩いてた。僕が付けたのか、偶々か、後者であれと願うばかりだがとにかくチャンスか、もちろん男なら告る他ない、極論かもしれないが、話した事すらないが、行って後悔してこそだろ、さっそく玉砕覚悟かよ、落ち着けまずは友達から、なんて声かけようか、とか悩んでいる内に彼女はおもむろに煙草に火を付け、僕は思わず蒸せて吹き出した。

歩き煙草で前を行かれると、少し嫌な気分になるでしょ、私もそれに習っただけ」

彼女が僕に振り向いたのは、それが最初で最後だった。

「吸うの、」

「いいえ、未成年だもの。厄除けみたいなものかな」

僕はそれでも彼女の後ろを歩いて帰った、やけに痛んだ目を拭った袖口に、何とも拭えない染みが残されていた。


「しょっぱい」

ただそれだけのある日の話。

掌編嗅覚『へい、ふぃーばぁ』

国語の時間は苦手だ。

『すくすくとたんぽぽ』

の音読。

「次は、ゆうた君」

「はい」

マスクを外す。

鼻がむずむずする。

ずるずるすする。

はなからミスする。

「くすくす」する声。

紙くずもすぐ、ぐずぐず。

鼻水かみすぎず、袖の端でふく。

服を恥じ、それを隠し、席に着く。

ずきずきする傷に気付く。

人中(ここ)の赤みの痛み。

集中出来ない。

まず水を出す。

ぬるぬるの危機に効くって聞く、薬飲むのはなかなか不味い。

マズい、吐きそう。

げー。

臭い。

熱い。

保健室のベッド。

平熱だ。

「どうして僕っていつもこうなんだろう」

「ゆうた君は花粉症だから。仕方ないのよ」

「臭くて、熱くなるやつのこと?」

「昔の農家さんが草を干していたら、熱が出てびっくりした病気なの。ヘイフィーバーってゆうんだよ」

「へい、ふぃーばぁ」


疑う事も必要だ。マイナスの思考がなければ、サバンナで生きて行けない。プラスの思考しか持てないシマウマは一番にライオンに食べられてしまう。

掌編聴覚『し』

僕はこの病院を出た事がないし、出る気もない。生まれつきの病気で目が見えない事もあって、窓の外は創造した妄想の世界。楽しく幸せな天国って事になってる。だけど流石に14才にもなって気づいてるから、退院勧告は望んでない。他人と違う僕が、外でどんな目に会うか、想像する程嫌になる。

医者は言った。

「よく頑張りました。完治おめでとう」

冗談じゃない。

去年、新薬の副作用で僕は聴力を失った。

目も耳もない、かの琵琶法師のような僕に完治だって、全然もと通りになってない。

お医者様はなにをどう診たのか。

この目も、お耳も、全部普通にして完治にしてよ。じゃないと僕は、命の危機から救われてない。コワクテコワクテ。

だけど本当は、凄く嬉しい。

凄くありがとうって思ってる。

お医者さんにも、両親にも、支えてくれたみんなに元気な笑顔を見せたい。だからこそツラいんだ。本当は全部聞こえてるから、お医者さんの言葉も、両親の涙声も、みんなの励ましも、今も聞こえるから、僕は聴こえないふりをして生きてる。

沢山の人が見て見ぬふりをしてる。

本当は誰も違いを受け止められないままで、

そして僕も。

掌編味覚『シンプル』

無駄。

「まーた電気つけっ放しじゃん」

何故スイッチを切らないのか。どうして五分前に集合するのか。大が小を兼ねる理由も、オシャレという飾りの訳すら解らない。キッカケは娘の何気ない言葉だった。

「お父さんなんて誰も見てないから」

私は帽子を被る事を辞めた。

帽子を選ぶ時間、帽子を買うために払うお金、更にはそのお金を稼ぐために費やした労力が、全てが無駄だった事に気付いた。

「断捨離、流行ってるよね」

私が物を捨てる度、娘は言った。

「最近のそれノームコアってやつ、若いね」

私服は上下で14着、7セット。毎週同じ物に手を通し、同じく足を通し、同じ時間に同じカレーライスを食べると、同じ分速で歩き、同じ電車の同じ場所に乗り、同じ日常を繰り返して、全く同じシナリオに満足して眠った。

これは何かを選ぶ時間や、何かに費やす精神を、無駄にしない為のエコだ。そうして浮かしたゆとりを、私はいつか思いっきり使う。

無駄。

「お父さんって何が楽しくて生きてんの」

娘の一言に、私は無性に悲しくなった。


無駄の積み重ねこそが人生なのかもしれない。あのシンプルな日々こそが、人生にとって空白の無駄となっていた。

私は好物のカレーライスと共にめいいっぱいの水を頬張り、少し遅めの寝支度を始めた。